シャープの「悲劇」

文藝春秋』(7月号)のシャープ物語を読む。
タイトルは「早川家VS.佐伯家 シャープ二つの創業家『百年の恩讐』」とある。物語としては面白いが、著者が技術(の流れ)に詳しくないためシャープの液晶ビジネスの失敗が情緒的な分析に終始していることにやや興ざめ。いつまで勧善懲悪のパターンで企業経営を描く手法を続けるのだろうかと思う。

企業にはいろんな側面がある。水戸黄門大岡越前の時代劇とは違うのだから、悪玉を作って分かり易く、面白くする必要はない。複雑なものは複雑に理解するしかないことを、いい加減分かってもいいころだ。

それにしても、現社長の高橋氏が「けったいな文化」と呼び、それを変えると宣言したことを評価しているが、わずか1年で奥田社長のクビを切って登場した新社長の仕事の始まりがそんな精神論でいいのかと思う。倒産の危機にさらされる中、社長に就任した者がまずやらなければいけないのはシャープをどのような企業に変えようとしているのか(ビジョン)を明らかにし、それを目指す事業戦略(この場合、再建戦略)を描き、ロードマップを提示することである。そのどれひとつも、社長の高橋氏は実行していない。社長の仕事が何かが分かっていないと考えるしかない。

シャープの経営危機を招いた直接の原因は、経営首脳が技術の変化を読めず、変化に柔軟な対応ができなかったことに尽きる。他は、そのことに付随して生じたものに過ぎない。もしシャープの「悲劇」をひとつ挙げるなら、液晶ビジネスの失敗の戦犯に挙げられる町田元会長しか、具体的な再建案を持ち、それを実行する能力がなかったということだ。町田氏は、少なくとも鴻海精密工業という救世主を見つけ、交渉のテーブルに付け、一定の合意を得るところまで進めている。鴻海精密工業と組む再建案が妥当かどうかは別にして、これまでシャープの具体的な再建案を提示できた幹部が町田氏しかいないという事実にもっと真剣に目を向けるべきだと思う。

戦犯と批判する元経営首脳しか具体的な再建案を提示していないことを、いまの経営陣は恥だと感じるべきだと思う。