「禁煙ファッショ」という言葉

先日、帰宅が深夜になったため、タクシーを利用した。クルマが首都高に入ると、運転手さんが「煙草吸われますか。吸ってもかまいませんよ」と言い出した。「でも社内は禁煙でしょう」と尋ねると、「ええ、そうですが、高速に入ると誰も見ていませんから」と笑った。

禁煙について、その運転手さんと少し話した。
「お客さんはご存じないかも知れませんが、私が若い頃、戦後まもない頃ですが、ヒロボン(覚醒剤の一種)というのがありましてね。これを飲むと眠気も覚めて元気になると政府も宣伝し、どこの薬局でも売っていました。それが突然、ヒロポンは身体に悪いからと禁止になった。さんざん宣伝して中毒患者にしておいて、すぐに止めろといってもなかなか出来るものじゃないですよ。それこそ、地獄の苦しみです」

そういうと、車内で煙草を吸ってもいいといった理由に触れた。
「煙草も同じでしょう。国が専売公社(現、タバコ産業)に独占的にタバコを売らせておいて、健康の悪い、周囲の人に迷惑がかかるとか言いだし、煙草の価格を上げましたよ。じゃ、専売公社はタバコを売るのを止めたんですか。いまもじゃんじゃん売っているじゃないですか。国がニコチン中毒にしておいて、健康に悪いからとか、会社では禁煙できないヤツは意思の弱いヤツだとか避難ばっかりする。
私も以前はゴールデンバットを1日に3箱も4箱も吸っていました。偶然、大病を患った時にタバコをすわなくなりましたが、中毒になっている時に止めろといわれてもなかなか難しいですよ。しかも中央区でしったけ、区内で煙草を吸ったら罰金をとるとか。だったら、区内で売るなよと思いますが、税金が欲しいから売っている。お上(かみ)のすることは、いつもいい加減です。だから私は、吸いたい人には我慢しなくてもいいですよ、高速だと窓を少し開ければ大丈夫ですからといって吸わせているんです」

なるほど、そういう見方もあるのかと感心した。
たしかに、タバコを吸うと肺癌になるし、タバコを吸わない人が周囲にいたら、その人もタバコの煙をすうことで喫煙者と同じ肺癌リスクにさらされるということで、公共の場所や人が集まる飲食店などでの禁煙化が進んでいる。
しかし禁煙が社会的な関心事になり、喫煙者は雇わないと宣言する会社まで出てくる世の中になり、喫煙者は年々減少傾向にある。ならば、肺癌患者は減っているかというと逆に増えている。

知り合いの医師によれば、大気汚染やクルマなどの排気ガスによる空気汚染が進み、そちらのほうが肺癌リスクを高めているという。しかしこのことは声高には言えないと、その医師は言う。「だって、禁煙に反対しているように思われるじゃないですか。喫煙が健康に良くないのは事実ですが、それを肺癌の原因にすぐに結びつけるのはどうかと思います。ラットによる短い実験期間の結果を、そのまま人間に当てはめるのはどうなんでしょうかね」

私は喫煙者だが、歩きタバコや公共の場所での喫煙はするべきではないと考えている。法律がどうのとかいう前に、健全な社会常識としてそう思う。しかし禁煙できないからという理由で企業が勤務の評価に入れたり、喫煙者は雇用しないというのは明らかに行き過ぎだと思う。現に、国がタバコ販売を容認し、喫煙者を増やしているのに、すべてを個人の責任にしていしまうことに抵抗を覚える。ましてや仕事の能力や功績で評価されるべき評価基準に「禁煙」を入れるのは、ある種の差別を感じる。

大阪市のように勤務中にタバコ1本吸って解雇とか、どう考えてもバランスを失していると思うが、それが支持される世の中になっていることが恐い。

それに対し、アルコールには信じられないほど寛容な社会であり、国民だと思う。毎年、飲酒運転で少なくない人が交通事故等で死に事故にあっている。子供が犠牲になることも珍しくなり。だからといって、禁酒が叫ばれることはない。大学の学園祭などで新入生が歓迎会で一気飲みなどで死ぬ事故もなくなっていない。だいたい、大学内で飲酒できること自体がおかしい。企業でも仕事が終わると、会社内でアルコールを振る舞うところもある。どうかしていると思う。

企業でセクハラ・パワハラが多発するのは、多くは酒宴の席であることが多い。「酒の席のうえでことだから」といって、サクハラ・パワハラを庇う企業も少なくないし、職場でも「あのくらい」といって被害者のほうを問題にすることが多い。私個人は、いっそのこと「禁酒禁煙」を法律で決めたらどうかと思う。

いま一番嫌いな「空気」は、禁煙という「正義」さえ振りかざせば、他の問題は免除とはいわないが低く評価されがちなことである。