樋口毅宏「タモリ論」(新潮社、2013年)を読む。

 作家・樋口氏の「タモリ論」は、アマゾンのレビューで最低評価の☆1つと、最大評価の☆5つがほぼ同数の支持を得るという話題の書である。この摩訶不思議なレビュー模様は、どういうことなのか。それが自分なりに理解したくて、嫌いなアマゾンで購入し、早速読んでみた。

 一読して思ったのは、本書はある人物の評伝でも人物論でもなく、ある種の「世代論」ではないかということだった。たとえば、タモリを「論じ」つつも、たけしやさんまといった「ビッグ3」にもかなりの頁を割いて触れている。だから、「タモリ論」なのに、なぜたけしやさんまの話が多いのかといった読者の不満も出てくるし、タモリ「論」になっていないとか、よく知られているタモリのエピソードばかりで秘話がないといったタモリファンからの失望の声もレビューを賑わせることになる。

 たしかに、いわゆる「タモリ論」なら彼らファンの不満も、レビューの評価が大きく分かれるのも理解できる。著者がタモリファンの数だけ「タモリ論」があると冒頭で断っていても、多くのタモリファンやタモリに強い関心を持つ読者は、小説家である著者しかしらない「秘話」があるのではないかと期待してしまうものだかからだ。

 著者が意図したことかどうか分からないが、その期待を見事に裏切ってしまっているため酷評するレビューが賑わせることになる。逆にいえば、それだけタモリファンにはディープな人が多いとも言える。

 しかし「タモリ論」を、ひとつの「世代論」と考えると樋口氏が本当に書きたかったことが見えてくる。

 私は樋口氏が「タモリ論」で描きたかったのは、タモリその人のことだけではなく、樋口氏および同世代の人たちが生きてきた時代や社会、そしてそこに横たわる不条理や理不尽さ、だったと思う。もっというなら、樋口氏はタモリやさんま、たけし、あるいは3人に因縁のある人たちを手がかりに、あるいは舞台にして自分が生きてきた時代の社会の不条理と理不尽さの中にも希望の「正義」を見出したかったのだと思う。

 人間は自分の姿を見るためには「鏡」およびそれに類するものを使う。それなくしては、自分の姿を見ることはできない。樋口氏はタモリやさんま、たけしの3人について触れるとき、つまり彼らを「鏡」にして自分の世代が置かれた時代と社会を見つめ直そうとしたのが本書だと思った。

 それゆえ私にとって、「タモリ論」は優れた世代論であり、私の評価は☆5つとなる。

それにしても、樋口毅宏という作家はタダ者ではないと思った。自分とその時代と書くために、タモリ・さんま・たけしという芸能界の大御所を「活用」したわけだから、大胆不敵というか大したものだ。私も大御所たちを通じて、樋口氏たちの時代を改めて知ることができて、楽しかった。

 私は、深夜番組で中国人・韓国人・ベトナム人などの4人による仮想麻雀の模様を演じていたいたタモリが最初の出会いである。その頃のタモリが一番面白いといまでも思っている。だから、フジテレビの「いいとも!」なんて、まったく評価しない。しかしそれが、少なくとも私がタモリを通じて自分の時代と自分の姿を見ているからだと思う。「昼間からいい大人が何をやっているんだ。友達の輪じゃないだろう」と思った血気盛んだった若い頃の自分の姿を思い出す。

 樋口氏は小説家だが、タモリ論のような評論にも優れた才能の持ち主だと思った。次の「論」を楽しみに待ちたい。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA%E8%AB%96-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A8%8B%E5%8F%A3-%E6%AF%85%E5%AE%8F/dp/4106105276/ref=pd_rhf_se_p_t_3_S5J8