選んだ人の責任

 またまた、問題市長の問題発言が発覚した。
 毎日新聞は、下記のように伝えた。
《ブログでの障害者への差別的記述が問題化している鹿児島県阿久根市竹原信一市長(50)は、21日に福岡市であった講演会で「活力ある社会を作るというのは、命の定義に踏み込まなければいけない。刈り取る作業をしなければ全体が失われる」などと語った。障害者問題を念頭に置いた発言とみられ、改めて波紋を広げそうだ。》

 これは、明らかに「選民思想」である。
 ナチス・ドイツの宣伝相、ゲッペルスが唱えたアーリア人の優越主義と根本的には同じではないだろうか。ここから、ユダヤ人の虐殺……ホロコーストの正当性が生まれてくるのだが。

《講演会は福岡市の経営情報誌主催で、企業経営者ら約30人が出席。「刈り取り発言」は、「NICU(新生児集中治療室)」のドキュメンタリー番組の内容に触れた後に飛び出した。社会づくりを「木」にたとえて「枝が腐ってきたら、切り落とさないといけない」とも語り、差別的記述問題については謝罪する意思がないことを改めて強調した》

 おそらく社会に負担をかける障害者は「枝が腐ってきたら」(つまり、生まれてきても周囲に迷惑をかけることを指しているのだろう)「切りと落とさないといけない」(出産段階で殺しておくべきだったと言いたいのだろう)というのが本音なのだろう。

 しかし、じゃあ誰が「枝が腐ってきて」といると判断するのだろうか。
 かつてのナチス・ドイツでは、突撃隊がユダヤ人の家々のダビデの星を描いたり、あるいはユダヤ人の洋服にもダビデの星を付けさせて「区別」したが、同じようなことをするとしたら、阿久根市の職員がその役を担うのだろうか。

 いずれにしても、とても行政のトップとは思えない発言であり、行動であるが、それを多くの市民が支持しているというのが、不思議だ。メディアは阿久根市長を問題視するが、私は「選んだ人」、つまり市民の民度、民主主義の意識を問題視したほうがいいと思う。

 かりにこの人物が阿久根市長を辞めたとしても、同じレベルの人を再び市長に選ぶに違いないからだ。前も市議会で市長不信任案が可決され、失職しても再選挙で市長に当選している。つまり、そういう考えの市長を支持する、市長と同じ考えの市民がたくさんいる限り、どうしようもないことだと思う。

 まともな企業、あるいは市民は阿久根市から出て行くことで、この市を事実上なくしてしまうことが一番早道のような気がする。それにしても、人間を枝や木など植物に喩えるやり方は、間違っている。前提となる人間と植物は違うものなのだから。